入学の日
「文乃さーん、忘れ物ないー?」
「うん! あっ、鉄兵、帽子帽子!」
慌しい朝。
昨日まで春休みで、朝出かけるのは先生だけだった。
けど、今日からは。
鉄兵は年長さんに。
私は、女子大生になる。
「文乃さんの入学式、行けなくて残念だなあ」
「何言ってんの。大学の入学式なんて、親だって来ないって」
鉄兵が帽子を取りにいっている間、玄関でそんな会話を交わしていると、ふと先生の手が目に入った。
「先生! 手っ、指! 指輪、外し忘れてるよ!」
指差すと、先生は自慢げに私に手の甲を向けて指輪を見せつけるようにした。
「外す必要ないでしょ? もう隠さなくていいんだから」
その言葉に、少し照れ臭い気持ちになる。
「あれ、そういう文乃さんこそ、指輪は?」
「え? ちゃんと――ほら」
私はいつもどおり、チェーンに通した指輪を服から引っぱり出して先生に見せた。
「何で指にしてないの。外して外して」
先生はそう言いながら、首に手を回してくる。
「ちょっと、先生っ」
「ほら、手、出して」
「もう何――」
先生は私の左手に指輪をはめると、そのまま唇をつけた。
「虫よけだよ。――スーツ大人っぽいし、これからは目の届かないところに行くのかと思うと、心配でしょうがない」
「先せ……っ」
先生は、指輪だけじゃなくて爪や指にも口づける。
やだ、朝からドキドキする……。
先生は私の手に口づけたまま、視線を上げた。
予期せず視線が合って、心臓が跳ねる。
「約束。覚えてる?」
「う、うん……」
昨日の夜、先生の腕の中で散々言われたこと。
「ほんとに? 文乃さん、最後の方、意識飛んでたみたいだったけど?」
「な……っ、誰のせいだよ!」
昨夜のことを思い出して、私はカッと赤くなる。
「さ、復習。約束したこと、言ってごらん?」
先生の唇は、いつの間にやら私の頬や耳を這い回っていた。
「ご……合コンには行かないこと」
「それから?」
「サークルは、ちゃんと活動しているところか見極めてから入ること。――『飲み会サークル』には入らないこと」
「それから?」
「それから?」
――他に何か、あったっけ?
「一番大事なことだよ」
先生は首をひねる私を抱きしめた。
「『やりたいことをガマンしないこと』」
「え?」
「あんなに頑張って合格したんだから。勉強はもちろんだけど、キャンパスライフも楽しまないとね。
合コンはダメだけど、新歓コンパやクラスコンパなんかは参加して構わないし、サークルだって、興味があったら入るといい。でも、他校の男子と交流するのが目的のようなところもたくさんあるから。そういうのはダメ」
「でも」
「鉄兵くんのことは、僕や龍がいるから気にしなくていいよ。気長にいこう。学生はあと2年しかできないけど、奥さん業はこれから何十年。先はまだまだ長いんだから」
先生はおでこ同士をこつんと当てて「ね?」と笑う。
「うん……」
私は、先生にぎゅっとしがみついた。
「あ、もっと大事なことがあった」
「何?」
「『いってきます』のキスは?」
そう言って、先生は私の顎に手をかけた。
「朝かららぶらぶもいいけど、遅刻するよー?」
先生の唇が触れる寸前、聞こえた龍せんせいの声。
――え?
ばっと振り返ると、鉄兵と、鉄兵を抱っこする龍せんせいがこっちを見ていた。
「りゅ、りゅりゅ龍せんせい、いいいいいつの間に!?」
「何度も呼んだよなー、鉄兵」
「ねーっ」
いつから見られてたんだろう……恥ずかし過ぎる〜〜っ!
「鉄兵。俺らは良い子だから、遅刻しないようにもう行こうぜ」
「いこうぜーっ」
「待って、あたしも出るから!」
「ダメだよ、文乃さん」
え、と思う間もなく、先生はドアを閉めて私に一瞬のキスをした。
「ちょ……!」
「遅刻しても、これは絶対だよ」
先生は私を離すと、「入学おめでとう、奥さん」と笑った。
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