シルシ


「文乃さん、お風呂あいたよ」
「はーい。鉄兵、行こ」

 僕と入れ替わりに、文乃さんと鉄兵くんが風呂場に向かう。
 居間のテーブルには、文乃さんの入学手続きの書類が残されていた。
 それを1枚取り上げる。
 入学者の欄には「梶文乃」と書かれていて、僕は小さくため息をついた。

 文乃さんの戸籍上の名前は「尾白文乃」だ。
 高校時代は結婚自体が秘密だったから自然に「夫婦別姓」にしていたけれど、卒業した今、大学では「尾白」を名乗ってもらっても良いのか、それとももう少し周りには隠した方が良いのか、ワクワクしながら考えていたから、少し寂しく思ってしまう。

 文乃さんから赤い顔して「書類には『梶』と『尾白』、どっちで書いたらいい?」なんて可愛い相談されるのかなー、と妄想していたけど、それも空振り。

 彼女のご両親が遺したお金を学費にするんだし、保証人にはそれを管理している智之さんの名前を記入するんだから、「梶」で提出するのが当たり前だとわかってはいるけれど。

 文乃さんは、自分が「尾白」になってる自覚あるのかな。

 ――これから2年、文乃さんは僕の目の届かないところで僕の知らない出会いを経験する。
 男友達もできるだろうし、中には文乃さんに恋をするヤツだっているだろう。

「誰にも奪われるつもりはない」「心変わりはさせない」なんて言っても、僕の心は不安と嫉妬でいっぱいだ。

 できれば、大学では「尾白」を名乗って欲しかった。

 ――あれ?
 あんなに「尾白」を憎んでカタチや名前なんてクソ食らえだと思っていたのに、一番こだわってるのは――僕?

「先生? どうしたの?」
「えっ? あ、いや。早かったね」

 書類を握ったまま、ぐるぐると考え込んでいたらしい。
 文乃さん達が近づいていたのにも気づかなくて、少なからず驚いた。

「そう? いつもと同じだよ」
 文乃さんは、風呂上りの上気した顔でにっこりと笑う。

 僕は立ち上がって文乃さんの頬にキスをしながら、鉄兵くんには聞こえないように囁いた。
「部屋で待ってる」
「うぐっ……!? え、えーと……うん。……鉄兵が寝たらね」

 文乃さんはぼっと首まで真っ赤にして、小声で返した。

「おやすみ、鉄兵くん」
「おやすみ、まーくん」

 鉄兵くんの頭を撫でて、僕は部屋に入った。


 ――だから僕は、文乃さんの心とカラダに刻みつける。
 「君は僕のものだ」という証を。

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